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イマジン

明治時代、外国人宣教師 A・C・ショーによって紹介された軽井沢はその後世界の様々な人々を魅了しこの地に呼び寄せている。明治23年に英国公使ヒュー・フレイザーがこの地に別荘を建て、その後宣教師ダニエル・ノルマンや貿易商R・M・アンドリュースなど多くの外国人に愛された軽井沢。最近ではビル・ゲイツの名前なども囁かれるが、あの巨大なシェルターの様な建造物が彼の所有かどうかは都市伝説になりつつある。

とは言え、軽井沢を代表する外国人と言えばジョン・レノンと言ってよいだろう。ヨーコ夫人と幼い息子ショーンとの仲睦まじいスナップ写真は旧軽井沢通りにある軽井沢写真館や彼らがよく通った中軽井沢のカフェ離山房で観る事ができます。

万平ホテル史料室に掲げられた写真

もう一箇所レノン一家が愛した場所と言われるのが老舗万平ホテルのカフェテラス。ここのロイヤルミルクティーがレノンのお気に入りだったそうで、今も変わらぬ味を保っているそう。以前一度このホテルで紅茶をいただく機会があったが、その記憶が忘れられない。軽井沢の伝統的な建物に北ヨーロッパのハーフティンバー様式が加味され独特の雰囲気を漂わせる。もう一度体験してみたく万平ホテルを訪れた。

万平ホテル カフェテラス 

格式の高い万平ホテルだが、野外に面したカフェテラスは気軽に大正ロマンを味わえる。ここから世界平和を願ったジョンとヨーコ夫妻をイマジン。口元には香り高きロイヤルミルクティー。

かるいさわ物語

北陸新幹線、高崎を過ぎるといくつものトンネルを通過しながら標高が上がっていく。軽井沢駅に近づき「次は軽井沢駅に停車します」のアナウンスが聞こえる。このアナウンスにどことない違和感を感じる。アウトレットに直結した近代的な駅舎。東京24区の軽井沢に来た気がするのは私だけかしら。

ここ東信地方を地元とする私にとって、ここは皆さんが知っているセレブな避暑地軽井沢とは少しイメージが違うかも知れません。中山道軽井沢宿であり古くから外国人が暮らす歴史ある街。度重なる浅間山の噴火と戦後満州からの引き揚げ者による農地開拓など、その長い歴史を知る私たちの呼び名は「かるいさわ」(語尾を少し上げる感じで)

親戚が集まっても地元の人は「かるいさわ」と言う人が多い。この発音の違いって何かしらと調べてみたら ああやっぱり… 元々は「かるいさわ」だったらしい。

ショーハウス記念館にて

今から135年前、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を別荘地とし、その後外国人が次々と訪れるようになっていった。外国人にとって「カルイサワ」はやや発音しにくく彼らの中で自然と「カルイザワ」と呼ばれるようになった様です。これをそのまま受け入れて日本人も「かるいざわ」と呼び名を変えてしまったのですから、なんとも日本的ないきさつですね。

昨年度の軽井沢町への転入者は約600人。長野県内ダントツの移住者数。テレワークの普及などにより転入者超過傾向が続いています。私も7年前にここを終の棲家に決めた一人。135年前とは違う新たな移住者たち。私の知っている「かるいさわ」は遠い昔の事。

千本透かしに魅せられて

戦後未だ物が十分に無かった時代、1950年代にこんな指輪が作られました。千本透かしと呼ばれるこの技法は少しでも材料を節約するために台座を糸鋸で鉄格子の様に細かく切り出す技法が実に巧みで日本人の職人魂を感じます。不釣り合いなほどの大きな石もこの時代の特徴ですが、そこがちょっとだけおもちゃっぽくて意外に良いんですよね。

実は私が初めて買った指輪がこの千本透かし。当時中学生だった私は最新のデザインよりもこのおばあちゃん指輪に魅せられてしまいました。当時400円くらいで買ったかな。今は長女の宝石箱に入っています。

この千本透かしですが、残念ながら宝飾ジュエリーとして評価される事は無く、大半はスクラップにされていつの間にか姿を消してしまいました。今ではほとんど見かけなくなった千本透かしの指輪ですが、この独特の雰囲気が受けていて根強いファンがいるのも事実です。滅多に出ない品ですがたまに出会えた時はなるべく仕入れる様にしております。この他にも昭和のアクセサリーを沢山取り揃えておりますのでご覧になってください。

そろそろ冬支度

9月に入り朝夕の冷え込みを感じる様になりましたね。寝苦しい夜もほとんどない軽井沢の夏なんてほんの一瞬の事。我が家には一台だけエアコンがあるのですが、今年はとうとう1日も稼働することなく短い夏が終わりました。

追分のこの辺りの標高は970メートルで年間の平均気温は9度前後。夏の最高気温は26~28度で亜寒帯湿潤気候に属します。これって樺太とほとんど同じ気候になるとか。一年の半分は暖房器具を必要とする場所。そろそろ冬支度なんて早いと言われそうですが、もうストーブの季節なんですよ。お越しの際は上着を一枚お持ちください。

ナナカマド 9月25日撮影

なつめクラフトも9月からすっかり冬色に模様替え。ニットの帽子や耳当て毛糸の髪飾りやブローチ 編みぐるみの仲間もいっぱい増えて、皆様のご来店をお待ちしております。

子供用洋梨帽子ほか
手編みの刺繡付ウールバッグ 菊のヘアゴム他

ジャクレー邸の食卓

私の母は20歳の頃から数年間、軽井沢の聖パウロ教会裏にあった聖アントニオ幼稚園で保育士をしていました。1950年台前半、終戦からようやく復興し始めた頃の時代のことです。

聖パウロ教会中庭 右上ライモンド神父 右下母政子

聖アントニオ幼稚園には地元の子供の他に外国人の園児も約半数いてキリスト教の礼拝や様々な行事には別荘の住人や外国人も加わり楽しい思い出が沢山あったようです。

行事の度に訪れる人々の中に、当時軽井沢に疎開していたフランス人浮世絵師のポールジャクレーがいた。

ジャクレー邸に住む子供たちの世話をしていた母は度々ジャクレー氏から声を掛けられ、万平ホテル近くにあるジャクレー邸を度々おじゃましたらしい。ジャクレー邸の家主は羅さんと奇礼さんご夫妻。当時独身のジャクレーさん、母がコックと呼ぶ東洋人と後に養子となるテレジアとピエール、アンドレアの3人の子供達。他にも書生さんも居たとか。。。なんとも不思議な共同生活を送るジャクレーさんの暮らしは「質素だったがとてもモダンで素敵な暮らしだったわ」と母は懐かしそうに当時を振り返る。そこは同じく軽井沢に疎開していた文化人や外国人もたびたび訪れ、さながら社交場の様でもあったが、好き嫌いがはっきりしていたジャクレー邸の門をくぐれる者は彼が好んだ一部の人達だけだったと語る。

ジャクレー邸

夕暮れ時 美食で知られるジャクレーさんの夕食は肉類や乳製品を使ったフランス料理でとても素晴らしい食事だったようだ。母にとっては忘れ難いひとときであったのだろう。数年前から認知症を患う母の口からとめどなく言葉が溢れる。ポールジャクレー邸の話はここまで。

ポールジャクレー展が昨年に続き今年も追分郷土資料館にて開催されています。

二代目硝子の看板

お店を始めた頃は私の手作り雑貨を売るだけの小さな店であったが、ディスプレイ用に飾った漆器の皿やかんざしがお客さんの目に留まりいつの間にか半分は仕入れ物と骨董の店に。ショーケースやランプは昭和モダンで整え、レトロな雑貨や昔のビーズバッグも並ぶ。手作りも好きだが今はお店そのものを作るのが面白い。

お店作りの中でも特に気に入っているのが看板だ。気泡入りの特注硝子の看板は軽井沢の景色によく合い評判も上々。硝子越に映るなつめのロゴはいかにも涼しげで木漏れ日に照らされてきらめくところが良い。数か月前、看板の脚に錆止めを塗っていた時の事だ。ちょっと振り向いた拍子に ガッシャ―ン! スタンドが倒れ硝子が散乱。「やってまった・・」とても気に入っていた看板だけにしばらくの間は仕事も手につかず溜息ばかりが溢れる。背後で夫の呟く声がした。「俺でなくてよかった」

その後、気を取り直して新しい看板を注文。せっかくなのでデザインも一新。硝子部分は前回と同じ東御市にある硝子工房橙さんに。フレームは軽井沢長倉に工房を構える池田さん(本業は登山ガイド)にお願いして出来たものがこれ。今度は倒れないようにしっかりと固定しました。

軽井沢のちょっと変わった日常

往年のクラシックカーで颯爽と森の中を駆け抜けていく白髪のオジ様。サイドカーには奥様と思いきやゴーグルをかけた黒のラブラドールが。それがなんの違和感もない日常の光景なのですからここ軽井沢とはつくづく面白い所です。

ハイシーズンになると異常に外車の割合が高い。

もはや軽井沢のスタンダードとも言えるベンツやかっこいいフェラーリ、オシャレなアウディにカラフルなミニなど、実に様々。もしあなたが最新の外車の購入をお考えならば、この時期ツルヤ軽井沢店の駐車場を一度ご覧になる事をオススメします。

先日の事ですが、夫が帰宅するなり「オレンジのマクラーレンが近くの空き地に止まっていた」と嬉しそうに(夫はかなりの車好きてありまして)

マクラーレンをじかにに見たのは初めての様で、やや興奮気味。「マクラーレン?たしか昔アイルトン・セナが‥」程度の知識しか無い私にはいささか理解不能。

とまぁ、軽井沢とはこんな所です。

マクラーレンとはこんな車

浅間の水とその行方

ここ軽井沢周辺には小川が多い。地図には載らない小さな小川だ。湧水が多い所為だろうか小さい割にはどれも結構な水量があり透明度は高い。散歩をしていると突然池が現れたり湿地が広がっていたりする。一昨年の台風19号の後の事だが、お隣りの裏庭に新たに小川が出現して驚いた。さながらここは水をテーマにした巨大なフィールドワークエリア。

浅間山は山自体が巨大なダムになっていると聞く。山に降った雨がゆっくりと地下に浸透し再び地上に現れるまで実に6年の年月を要するそうだ。地層の隙間から地下水が湧き出す風景で有名な場所は旧軽井沢から峰の茶屋に向かう途中にある「白糸の滝」

浅間の地底深く張り巡らされた地下水脈。その中の一本 突如地層に表れたむき出しの断面。そこから吹き出す真っ白な水。

70メートルにも渡り湾曲した滝の水は冬も枯れる事が無い。水に触れると思った程冷たくない水温は浅間山の地熱が影響しているらしい。夏休み、自然を満喫しながらお子さんに浅間山の豊かな水を語るには絶好のロケーションだ。

分去れ

「わかされ」と読む 分かれ道のこと。何とも愁いのある言葉だ。 群馬から長野にかけての方言だという。

ここ追分の分去れは北国街道と中山道の分かれ道。ここから右は北陸へ、左は京都へと道は続く。旅など容易ではない時代、同じ宿を共にした者同士がこの場所で互いの旅の無事を祈って分かれて行ったのだろう。分去れの碑を見るべく一段登るとそこには凛とした馬頭観音が立つ。どこか異国風のその面立ちはマリア観音という説もありますが定かではありません。

観音様を見つめていると、美智子上皇后さまがかつて分去れを詠んだお歌を思い浮かぶ。「かの時に我がとらざりし分去れの 片への道はいづこに行きけむ」もしも違う道を歩んでいたらどんな人生であったろうと言うこの歌。誰しもこんな思いはあるものだが民間から皇室に上がった上皇后さまの思いは如何ばかりであったろうか。

時代の分去れの様な今、行先もわからぬ旅の無事を祈って静かに手を合わせる。

これも時代の流れ

「良く手洗いをして静かにお家で過ごしましょう」

そんなお家生活もだいぶ長くなりましたね。ただ時間を持て余していても仕方がないのでいろいろ新しい事にも挑戦。在庫の整理、ショップカードのリニューアル、以前から興味のあったビーズ編みに挑戦したり、などなど。良い機会なのでお店の決済もキャッシュレス対応にいたしました。現金払い大好きの私がキャッシュレス化・・・ちょっと笑っちゃいますけどね。