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オフロスキー氏とは何者か

冬季休業中につき孫のTいちの話をもう一つ。

食事の支度の時などはなかなかTいちのお相手はできない。おとなしくしてもらうために最も有効な手段がテレビだ。定番の「おかあさんといっしょ」は堂々たる歌唱力とダンスで安定している。このお兄さん、お姉さんに起用されると一生食いっぱぐれはないらしく、音大 体育大系の狭き門らしい。

「おかあさんといっしょ」を観るTいち

最近気になる人物がいる。Eテレで平日の朝7時半からやっている「みいつけた!」という幼児向け番組に出てくるピンクの牛のパジャマを着た変な男。名を「オフロスキー」と言う。いつも浴槽から出てくるが必ずしもお風呂と関係があるわけでもない。毎回のテーマも身近な事柄にとどまらず多岐にわたる。記憶に残らない語りとどこかシュールな視線。真面目にふざけている感じが不思議と子供の気を引く。

オフロスキー

このオフロスキー氏(小林顕作)はなかなかの経歴の持ち主だ。日大芸術学部出の44歳。演劇界では知る人ぞ知る存在。劇団ユニット「宇宙レコード」では脚本・演出・主演をこなす。学ラン姿で有名な「コンドルズ」にも所属。「みいつけた!」では楽曲も提供するなどのマルチプレイヤー。こういったソフトなメッセンジャーが次世代に影響を与える。

トミカはすごい

時々やってくる孫のTいち(一歳半)。買い物好きの夫じいじは来るたびに新しいおもちゃを喜んで買い与える。男の子だなあと実感するのはやはり車系がお好み。それも働く車。街を連れて歩いても軽井沢でよく見られる外車、スポーツカー系には目もくれずもっぱらパトカーや救急車、消防車系の鳴り物ばかり。先日もN松屋のおもちゃコーナーでパーポー(救急車)をお買い上げ。このトミカのミニチュアカーは50年前から生産されているロングセラー商品で私も何台か持っていたが、遊んで良し、飾って良しの優れもの。コレクターが多いのも頷ける。

まずはその造りがすごい。子供の遊び方は容赦ない。廊下や砂場はもちろん、積木や大型おもちゃの中を潜らせ最後は落下、気に入れば浴槽にも入れられ、挙句の果てには巨体を惜しげもなく乗せてくる。それでもトミカは壊れない。アルミ合金製のダイキャスト 一番安全なおもちゃ。もう一つの特徴は精巧に再現されたその姿、細部に渡り美しい。これが400円台で買えるのだから驚きだ。

だいぶ昔の話になるがアメリカにしばらく住んでいた頃、現地で子供のおもちゃをいくつか購入。もちろんミニカーも何台か購入したが、造りに対するこだわりが違う。プラスチック成型品のためトミカほどの耐久性はなく、細かい部品はいつの間にか無くなっていたり、子供を意識した色やデザインもおもちゃの域を脱しない等など、トミカはこの業界では圧倒的に他を上回っていると実感した。これぞ世界に誇れるメイドインジャパン。たかがおもちゃされど...。

冬の森

冬の軽井沢は意外に明るい。街中を覆う落葉樹の葉が落ちるからだ。葉がなくなって枝だけになった森。

軽やかに気を上り下りするリス

12月。いつにも増してその姿が目につくのが二ホンリス。人間と同じ昼行性の動物。栗色から灰色の冬服に衣替えしたリス達の生活圏は半径1キロ程度。縄張り意識が強い動物らしく2~3匹で木々の間を縦横無尽に飛び回る姿はどう見ても遊んでいる様にしか見えない。

土を掘るリス

食べ物が少なくなる冬から春に備えてドングリを土の中に埋めている姿は、家中いたる所にへそくりを貯めている誰かの様だ。でもリスはへそくりの在処を全部は覚えていない。食べきらなかったドングリからは翌年クヌギやコナラの芽があちらこちらに。森の再生に一役買っているという訳だ。天敵が少ない軽井沢の森はリス達の楽園。

彼らの暮らしはコロナ以前から何も変わらない。

12月19日をもちまして本年の営業は終了いたしました。誠にありがとうございました。来年の営業は3月からを予定しております。

皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

50年目の答え

軽井沢を拠点に活躍している元バドミントン選手の池田慎太郎さんのとある雑誌でのインタビュー記事にこんな言葉があった。「サステイナブルな考え方を軸に据えたシューケアサービスの会社を立ち上げるなど仕事の幅は広がる一方」こう言った新世代の日本語?理解できない(涙)。夫に聞いたところ、意味は「持続可能な発展的な考え方を取り入れた生活関連の会社を立ち上げたところ仕事の幅が広がっている」という事でひとまず理解。

最近よく聞く言葉で今一つ分からないのがSDGs。

この頃は学校の授業でも取り上げられているらしくお子さんの方がよく理解している様です。これ「持続可能な開発目標」って意味なんだとか。国連で決められた2030年までに達成をめざす、例えば貧困を無くす、ジェンダーの平等、クリーンなエネルギー、気候変動の対策など17の世界的目標と169の達成基準で構成されている。なるほど…平和に暮らすための地球環境に配慮したルール作りって事か。

かつて軽井沢を愛したジョン・レノンの代表作「イマジン」そこから数えて50年目の答え。

Imagine all the people

Livin’ life in peace

イマジン

明治時代、外国人宣教師 A・C・ショーによって紹介された軽井沢はその後世界の様々な人々を魅了しこの地に呼び寄せている。明治23年に英国公使ヒュー・フレイザーがこの地に別荘を建て、その後宣教師ダニエル・ノルマンや貿易商R・M・アンドリュースなど多くの外国人に愛された軽井沢。最近ではビル・ゲイツの名前なども囁かれるが、あの巨大なシェルターの様な建造物が彼の所有かどうかは都市伝説になりつつある。

とは言え、軽井沢を代表する外国人と言えばジョン・レノンと言ってよいだろう。ヨーコ夫人と幼い息子ショーンとの仲睦まじいスナップ写真は旧軽井沢通りにある軽井沢写真館や彼らがよく通った中軽井沢のカフェ離山房で観る事ができます。

万平ホテル史料室に掲げられた写真

もう一箇所レノン一家が愛した場所と言われるのが老舗万平ホテルのカフェテラス。ここのロイヤルミルクティーがレノンのお気に入りだったそうで、今も変わらぬ味を保っているそう。以前一度このホテルで紅茶をいただく機会があったが、その記憶が忘れられない。軽井沢の伝統的な建物に北ヨーロッパのハーフティンバー様式が加味され独特の雰囲気を漂わせる。もう一度体験してみたく万平ホテルを訪れた。

万平ホテル カフェテラス 

格式の高い万平ホテルだが、野外に面したカフェテラスは気軽に大正ロマンを味わえる。ここから世界平和を願ったジョンとヨーコ夫妻をイマジン。口元には香り高きロイヤルミルクティー。

かるいさわ物語

北陸新幹線、高崎を過ぎるといくつものトンネルを通過しながら標高が上がっていく。軽井沢駅に近づき「次は軽井沢駅に停車します」のアナウンスが聞こえる。このアナウンスにどことない違和感を感じる。アウトレットに直結した近代的な駅舎。東京24区の軽井沢に来た気がするのは私だけかしら。

ここ東信地方を地元とする私にとって、ここは皆さんが知っているセレブな避暑地軽井沢とは少しイメージが違うかも知れません。中山道軽井沢宿であり古くから外国人が暮らす歴史ある街。度重なる浅間山の噴火と戦後満州からの引き揚げ者による農地開拓など、その長い歴史を知る私たちの呼び名は「かるいさわ」(語尾を少し上げる感じで)

親戚が集まっても地元の人は「かるいさわ」と言う人が多い。この発音の違いって何かしらと調べてみたら ああやっぱり… 元々は「かるいさわ」だったらしい。

ショーハウス記念館にて

今から135年前、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を別荘地とし、その後外国人が次々と訪れるようになっていった。外国人にとって「カルイサワ」はやや発音しにくく彼らの中で自然と「カルイザワ」と呼ばれるようになった様です。これをそのまま受け入れて日本人も「かるいざわ」と呼び名を変えてしまったのですから、なんとも日本的ないきさつですね。

昨年度の軽井沢町への転入者は約600人。長野県内ダントツの移住者数。テレワークの普及などにより転入者超過傾向が続いています。私も7年前にここを終の棲家に決めた一人。135年前とは違う新たな移住者たち。私の知っている「かるいさわ」は遠い昔の事。

千本透かしに魅せられて

戦後未だ物が十分に無かった時代、1950年代にこんな指輪が作られました。千本透かしと呼ばれるこの技法は少しでも材料を節約するために台座を糸鋸で鉄格子の様に細かく切り出す技法が実に巧みで日本人の職人魂を感じます。不釣り合いなほどの大きな石もこの時代の特徴ですが、そこがちょっとだけおもちゃっぽくて意外に良いんですよね。

実は私が初めて買った指輪がこの千本透かし。当時中学生だった私は最新のデザインよりもこのおばあちゃん指輪に魅せられてしまいました。当時400円くらいで買ったかな。今は長女の宝石箱に入っています。

この千本透かしですが、残念ながら宝飾ジュエリーとして評価される事は無く、大半はスクラップにされていつの間にか姿を消してしまいました。今ではほとんど見かけなくなった千本透かしの指輪ですが、この独特の雰囲気が受けていて根強いファンがいるのも事実です。滅多に出ない品ですがたまに出会えた時はなるべく仕入れる様にしております。この他にも昭和のアクセサリーを沢山取り揃えておりますのでご覧になってください。

そろそろ冬支度

9月に入り朝夕の冷え込みを感じる様になりましたね。寝苦しい夜もほとんどない軽井沢の夏なんてほんの一瞬の事。我が家には一台だけエアコンがあるのですが、今年はとうとう1日も稼働することなく短い夏が終わりました。

追分のこの辺りの標高は970メートルで年間の平均気温は9度前後。夏の最高気温は26~28度で亜寒帯湿潤気候に属します。これって樺太とほとんど同じ気候になるとか。一年の半分は暖房器具を必要とする場所。そろそろ冬支度なんて早いと言われそうですが、もうストーブの季節なんですよ。お越しの際は上着を一枚お持ちください。

ナナカマド 9月25日撮影

なつめクラフトも9月からすっかり冬色に模様替え。ニットの帽子や耳当て毛糸の髪飾りやブローチ 編みぐるみの仲間もいっぱい増えて、皆様のご来店をお待ちしております。

子供用洋梨帽子ほか
手編みの刺繡付ウールバッグ 菊のヘアゴム他

ジャクレー邸の食卓

私の母は20歳の頃から数年間、軽井沢の聖パウロ教会裏にあった聖アントニオ幼稚園で保育士をしていました。1950年台前半、終戦からようやく復興し始めた頃の時代のことです。

聖パウロ教会中庭 右上ライモンド神父 右下母政子

聖アントニオ幼稚園には地元の子供の他に外国人の園児も約半数いてキリスト教の礼拝や様々な行事には別荘の住人や外国人も加わり楽しい思い出が沢山あったようです。

行事の度に訪れる人々の中に、当時軽井沢に疎開していたフランス人浮世絵師のポールジャクレーがいた。

ジャクレー邸に住む子供たちの世話をしていた母は度々ジャクレー氏から声を掛けられ、万平ホテル近くにあるジャクレー邸を度々おじゃましたらしい。ジャクレー邸の家主は羅さんと奇礼さんご夫妻。当時独身のジャクレーさん、母がコックと呼ぶ東洋人と後に養子となるテレジアとピエール、アンドレアの3人の子供達。他にも書生さんも居たとか。。。なんとも不思議な共同生活を送るジャクレーさんの暮らしは「質素だったがとてもモダンで素敵な暮らしだったわ」と母は懐かしそうに当時を振り返る。そこは同じく軽井沢に疎開していた文化人や外国人もたびたび訪れ、さながら社交場の様でもあったが、好き嫌いがはっきりしていたジャクレー邸の門をくぐれる者は彼が好んだ一部の人達だけだったと語る。

ジャクレー邸

夕暮れ時 美食で知られるジャクレーさんの夕食は肉類や乳製品を使ったフランス料理でとても素晴らしい食事だったようだ。母にとっては忘れ難いひとときであったのだろう。数年前から認知症を患う母の口からとめどなく言葉が溢れる。ポールジャクレー邸の話はここまで。

ポールジャクレー展が昨年に続き今年も追分郷土資料館にて開催されています。

二代目硝子の看板

お店を始めた頃は私の手作り雑貨を売るだけの小さな店であったが、ディスプレイ用に飾った漆器の皿やかんざしがお客さんの目に留まりいつの間にか半分は仕入れ物と骨董の店に。ショーケースやランプは昭和モダンで整え、レトロな雑貨や昔のビーズバッグも並ぶ。手作りも好きだが今はお店そのものを作るのが面白い。

お店作りの中でも特に気に入っているのが看板だ。気泡入りの特注硝子の看板は軽井沢の景色によく合い評判も上々。硝子越に映るなつめのロゴはいかにも涼しげで木漏れ日に照らされてきらめくところが良い。数か月前、看板の脚に錆止めを塗っていた時の事だ。ちょっと振り向いた拍子に ガッシャ―ン! スタンドが倒れ硝子が散乱。「やってまった・・」とても気に入っていた看板だけにしばらくの間は仕事も手につかず溜息ばかりが溢れる。背後で夫の呟く声がした。「俺でなくてよかった」

その後、気を取り直して新しい看板を注文。せっかくなのでデザインも一新。硝子部分は前回と同じ東御市にある硝子工房橙さんに。フレームは軽井沢長倉に工房を構える池田さん(本業は登山ガイド)にお願いして出来たものがこれ。今度は倒れないようにしっかりと固定しました。