中山道六十九次、江戸から数えて二十番目の宿場で北国街道との分岐点でもある追分宿(軽井沢町)。かつては中山道屈指の賑わいを誇る宿場であった。
小田井宿から歩く事一里程、今の御代田駅の辺りから追分宿までは長い上り坂になる。追分宿は昔、旅人だけではなく地元の若い衆も遊びに来る者が多くこの坂道に差し掛かると、追分の宿から賑やかな声が聞こえて来て思わず笑顔になったと言われ、ついた名前が笑い坂。ちなみに「なつめクラフト」は笑い坂から佐久方面へ抜ける道沿いにあります。(笑い坂下)
笑い坂を登り切った先が追分宿だ。
元禄時代は、わずか4.5キロの宿泊の中に本陣脇本陣の他に旅籠71軒、商店28軒、茶屋18軒を数え飯盛女が250人ほど居た。ここで歌われたのが追分節。全国に広がる馬子唄はここ追分から広まったと言われる。飯盛女達は銚子の袴でひづめの音を出しながら、旅人相手の酒席を大いに盛り上げた。 今ではあまり聞かれなくなった追分節だがあの頃は宿場中に響き渡っていた。
小諸出てみて 浅間の山にヨー 今朝も煙が 三筋立つ(中略)
七里八里の 恋路をふんでヨー 衣紋繕う 笑い坂
送りましょうか 送られましょか せめて枡形の 茶屋までも
(追分節歌詞から)